表題は、その由来こそはっきりしていないものの、不正が発生する原因やリスクスポットの性質を語る際のポイントを見事に言い当てている格言であるので、ご存知の方も多いと思う。
筆者は、この格言の言わんとするところについて、「いかに悪い結果に終わった事案であっても、関わった人たちが悪意をもって行動した結果ではなく、むしろ、良かれと思ってやったことの集積の結果が、誰にとっても望まない結果を招くものになってしまったことの方が多い。」という風に、解釈している。さらに、踏み込んで、「一人一人が、自分は善意だと思ってやっていることが、必ずしもいい結果をもたらすことにはつながらない、むしろ、悪い結果につながっているのに、善意が邪魔をして発覚を遅らせることになる」と解釈するのが、的を得ていると考える。
例えば、ベネッセの情報漏えい事件に関し、調査報告書をひも解くと、漏えい原因・発覚遅延原因の一つに、経営陣を含む社員のシステムに対する過信が指摘されている。金をかけたシステムだったから、大丈夫だと思った。担当者がちゃんとチェックしていると思っていたので、信用した。 事故が起きた後から考えれば、甘いと指摘されるかもしれないが、当時としては、わざと漏えいさせようとか、わざと穴を作ろうとしたのではなく、むしろ、システムや他者の仕事を信用するという「善意」が存在したのであり、その善意の積み重ねにより、結果として史上最大規模の漏えい事故を起こしたことが見て取れるのである。企業の不祥事対策を考えるとき、故意の不正ばかりに目が行っていては、自社の「地獄へ続く道」の発見はかなわない。
リスクのホメオタシス理論によれば、安心と安全は相容れない概念であるという。つまり、安心しきってしまった結果、安全性の点検がおろそかになり、危険が発生したことに気づかない、だからこそ、安心・信頼によって懐疑心を放棄したならば、安全性の確保はできないというのである。また、ミス対策のチェック体制について、ダブルチェック、トリプルチェックを行っている企業は多いが、もし、それぞれの担当者が、チェックする側、される側相互に信頼してしまうという「善意」で対応するならば、何重のチェック体制を敷こうとも基本的なミスすら、目の前を通り抜けるもので ある。
筆者は、検察官であったが、かつて、時効が完成してしまっている事件が起訴され、判決直前まで、誰も気づかなかったという事件が起きたことがある(念のため、当職の事件ではない)。検察庁の事務チェック体制は、検事、立会事務官、決裁官、事件係と四重のフィルターがあり、どんなミスもどこかで気づくようにしている。また、裁判所も、起訴状の受付、書記官の点検、裁判官のチェックと三重のフィルターがある。そして何よりも、その被告人の弁護人が、起訴に誤りがないかを厳しい目で見るべき職責を負っていたはずである。
つまり、裁判全体のシステムで言えば、八重のフィルターがかかっており、かつそのフィルターの一つ一つは、プロフェッショナル達で構成された、まさに日本一のミス防止体制が整備されているのである。にもかかわらず、時効完成事件の起訴という前代未聞の見過ごし事件が発生したのである。きっと、当時のそれぞれプロフェッショナルは、お互いがプロフェッショナルであるが故に、相互に信頼するという「善意」しかなかったのだと思う。なお、この件で、時効完成に気づいたのは、裁判所で研修していた、司法修習生であった。 まだ研修中で到底プロとしての能力はない修習生が、判決起案のため、一つ一つ基本事項の確認をしてみたところ、時効完成していることに気づいたのである。
ベネッセ事件の報告書を見たとき、日本一厳しいチェック体制、システムを採っても、そのシステムを信頼するあまり、セルフチェックを怠り、健全な懐疑心を働かせなければ、基本的なミスも、ことごとくスルーされることを教えてくれた、この事件を思い出した。 どの組織も、組織内の不正防止に躍起となっている昨今であるが、体制やシステムに目を奪われ、「善意の怖さ」への啓蒙が十分になされているとは言えないのではないか。
会計監査人に要求されている、職業的懐疑心の位置づけのヒントでもあると思う。
性善説の経営者が多い日本企業では、ここがまさに、不正と戦う我々に課せられた課題であると考える次第である。
弁護士法人北浜法律事務所 弁護士、公認不正検査士、ACFE JAPAN 理事