新型コロナ禍で休載していた「理事長対談」コーナーを本号より再開いたします。通算第9回目となる今回は特別編として、早稲田大学名誉教授の上村達男氏をお迎えし、昨今議論が再燃している「会社」「株主」「企業の規範意識」のあり方といった観点から、監査や不正対策、内部統制、更にCFEの持つべき視点をお聞きしました。
(聞き手:藤沼亜起日本公認不正検査士協会理事長)
※本対談はACFEJAPAN第12回カンファレンスの基調講演対談を再構成したものです。
1971年早稲田大学法学部卒、1977年同大学院法学研究科博士課程修了。
後に法学博士学位取得。専修大学法学部教授、立教大学法学部教授などを経て、
1997年から早稲田大学法学部教授。2019年に定年退職し、名誉教授。
法務省法制審議会会社法制部会委員、東京証券取引所自主規制委員会委員などを歴任。
東京都出身。
中央大学商学部卒。1974年公認会計士登録。国際会計士連盟(IFAC)会長(2000-2002)、 日本公認会計士協会会長(2004-2007)、IFRS財団評議員会(Trustees)副議長などを歴任。 日本公認会計士協会相談役。
上村先生とはもう20年近く交流があり、証券取引所の委員会などでお会いしたことが最初だったかと思います。上村先生は証券市場、資本市場について知識が非常に豊富で、国際性も豊かな上、意見が鋭い。ただしその鋭さは、日本の証券市場や資本市場をいかに善きものにするかという観点で、とても建設的だと感じてきました。今回は原点に戻り、現在の日本の法的規範や企業意識を議論させていただきたいのですが、まず大局的にどのように総括されますか。
明治維新の開国を経て日本では法制度とともに証券市場や会社制度が育ってきた。失敗と挫折の連続ながら、現代まで先人が築き上げてきました。株式会社の歴史、特に証券市場と一体になった会社制度としての歴史は、もう挫折の連続だったと思います。特に、株式市場は、放置しておくと勝手に大暴れします——相場操縦、インサイダー取引、バブルがすぐ形成されてそのバブルはまた崩壊します。その影響で失業、犯罪などが起きる。欧州は経験則から市場を信用せず、会社法も事前規制的な性格が強いです。ところが、米国からみると、「欧州の制度を導入している日本は規制過剰だ」という捉えられ方をしてきました。彼らは欧州には不満を言えないのですが、日本には言えるのですね。日本は法学を始めとして、長らく欧州の制度をモデルにしてきましたが、この30年間で米国型に大きく転換してきたと感じています。
米国型への転換については、規制当局、官僚側にも問題があるのではないかと私は想像しています。では、この間に進んできた米国型への転換に、日本の会社や従業員、そして社会は順応できていると思われますか。
米国型の企業に対する概念を端的に示す象徴的な言葉に、「会社は株主のもの」という言い方があります。実は欧州でも、「会社は株主のもの」という表現は、以前から存在しています。しかし、欧州と米国では「株主」の位置付け、意味合いが異なります。ですから、「会社は株主のもの」という言葉の意味するところも、大きく異なっています。米国型が「資金を持ち株式をたくさん買った人が大株主」という単純な構図を示すのに対し、欧州の場合、社会の主権者である個人や市民が株主であり、市民主権の延長として「株主主権」が尊重されてきました。単純な持ち株数や資金だけでなく、「株主の属性」、そして株主であることに伴う責任が、社会や経済界からも株主に要求されています。欧州の会社関連法制はそうした文化的背景に基づき、総じて禁欲的といえるほど、株主に対して社会性などを強く求めています。こうした価値観は、株主となる市民側の規範意識の中にも根付いてきました。日本の会社制度や法制は明治時代以来、欧州型の会社のあり方をモデルにしてきましたが、欧州の市民の規範意識までは浸透しなかったと思います。この30年間における米国型の企業意識への転換の一因として、日本社会における市民の規範意識の希薄さもあったのではないか、そう感じます。
今の日本が米国型の会社のあり方に舵を切った、その一因として、市民の規範意識を継受できなかった、との上村先生のご指摘は大きなポイントだと思います。率直に述べると、株式を保有している人でさえ、株主あるいはオーナーとしての意識が希薄な場合も見受けられます。この30年間で会社への価値観が大きく変化した一方、法律や規制などは、諸外国ほど厳しくない実状があります。上村先生は「最近の日本はガバナンス・コードばかりで会社法を語らなくなった」と言われ、なるほどと納得しましたが、諸外国と比べた日本の法制度の現状をどうご覧になりますか。
米国と欧州(大陸)の違いは、「市場への信頼」もあると思います。極論すれば、米国は「市場を信じる」、欧州は「市場を信じていない」。それゆえ、欧州は市場に多くの規制を設けているのです。ただし、米国は事例規制に緩い部分がある一方、ルール違反に対しては容赦なく厳しく規制します。例えるならば、西部劇的な「豪腕の規制」ですね。ちなみに英国は、法体系的に欧州と少し違いますが、米国とも異なる独自の価値観を持っています。英国の法制は欧州(大陸法)とは異なりますが、米国とも違い、ソフトローを会社法の改正に至る試行ルールと認識して積み重ねて、20年に1回、会社法を大規模に改正しています。こうした世界の流れと日本を比較した場合、まず、会社のあり方に関しては米国型へ変移してきたと述べましたが、「豪腕の規制」の部分は真似せず、従来どおりのままで今に至っています。特に最近、会社法よりは「コーポレートガバナンス・コード」に、受託者責任よりは「スチュワードシップ・コード」に、それぞれ傾斜していると感じます。コーポレートガバナンス・コード、そしてスチュワードシップ・コードには色々な取り決めがありますが、突き詰めると東証(東京証券取引所)との間のやり取りであって、判例の蓄積にはならない。そこから法律の改正に結びつかない状況があり、法律や規制の「無防備さ」を懸念しています。
日本は無防備になっている、という点は私も感じています。私も社外役員に就いているのですが、買収防衛策はできないものだと、思い込んでいる企業も少なくないです。
コーポレートガバナンス・コードには良い部分も多いですが、適用範囲が非常に狭いのは課題だと思います。上場会社のみで、有価証券報告書提出会社すら入っていないですよね。外形基準による有報提出会社は金融商品取引法(金商法)の適用会社ですが、上場していなければ対象外になります。こうした企業は結構な数になりますが、「適用しなくてよいのですか」という質問もしばしば受けます。付け加えると、“comply or explain”(編注:「遵守(従属)または説明責任」。コーポレートガバナンス・コードにおける規制アプローチの原則)が基本姿勢、理念ですが、本当は“comply and explain”、つまり「遵守する理由にも説明責任」が当然の姿勢として求められていると思います。遵守していれば理由を説明しなくてよいとすると、コードの規範性を高く評価しすぎていると思います。
会社法を、金商法とは「別物」と認識する向きがあります。しかし、会社法には金商法の準用規定が多く、金商法が優先適用されているのが実状です。こうした乖離に、上村先生は「公開会社法」の創設を提言されてきました(注:公開会社法は上場会社法等法とも言われている)。
金商法が優先適用されている状況に対し、私や神田秀樹・東京大学名誉教授らが「公開会社法」という形で以前から提案してきたのは、株券や社債、株式会社が発行する有価証券に関する部分について、金商法はそのまま公開会社法、つまり会社法であることを明言すべきだということです。今、日本では「プライム市場」等が盛んに取り上げられており、コーポレートガバナンス・コードでは「グループガバナンスが必要だ」とされていますが、金商法は連結開示が中心で財務諸表概念、会社法は単体(個別)で計算書類ですよね。この両方の調整もできていない中、「グループガバナンス」などと言われても、どう対応するべきなのか、本当は公開会社法抜きに市場区分だけしようとしても整合性が欠けているように見えます。
日本企業のガバナンスを考える上で、東芝の問題が注目を集めています。一連の流れに対し、上村先生のご見解を教えてください。
企業に関わる日本の制度や論理の劣化が、浮き彫りになった事案だと思います。2021年3月の臨時株主総会の普通決議で、主要株主提案による調査者(会社法第316条2項)の設置が認められて注目を集めました。
ファンド株主の要求に賛同が集まり、そうした調査者が認められました。一方で、裁判所が任命した検査役の調査制度がありますよね。
裁判所が選任した検査役は、報酬も裁判所が決めます。法的問題の有無を調べるための調査を行いますが、目的は限定されており、調査報告も裁判所に提出しなくてはいけない。これに対して今回の調査者は株主総会の普通決議で組成でき、仕組みの根幹も目的も異なります。調査に要した費用は基本的に会社が負担しましたが、会社が負担しなければファンドが負担するとされていました。今回のような株主総会の普通決議だけで何らの制約のない調査が認められてはならないと思います。私がもう一つ注目しているのは、アクティビストのファンド側は21年3月の臨時株主総会で、配当可能利益の全額を配当できる、とする定款変更議案も提案していた点です。こちらは否決されましたが、利益を経営目的に使わせないという提案に他なりません。それでも約40%の賛成が得られたことは驚きでした。こうした行動には、前述の米国型の「会社は株主のもの」の原理が色濃く出でいると感じます。本当に会社の成長や将来を考えているのでしょうか。株主として資質もさることながら、こうした株主が数の原理で株主総会において議決権を行使することに疑問を持たない人が、一定数存在する現状も懸念しています。更に、かなりの報道機関が、ファンドの実態や提案の内容、妥当性を精査せず、「『東芝・経産省』対『物言う株主』」といったステレオタイプの報道を行い、市場の声に耳を傾けよ、などと盛んに主張していました。
この問題に関する上村先生の論文を拝読しました。このうち、株主総会における多数決の濫用に対する制約原理を考える上では、
(1)アクティビストへの対応策としての「素性情報提供請求権制度」が日本には存在しない(会社に対する権利を有する者としての正当性を確認する必要がある)、
(2)最高裁判決で承認されている「濫用的買収者概念」を株主にも及ぼすべき、
(3)株主総会における「特別利害関係株主の議決権排除制度」の廃止で多数株主の行為に対する制約が弱体化している、
(4)「議決権行使の事前差止制度」は例外的適用があるが活用されず事前チェックができない
——といった課題を挙げておられ、なるほど、と思いました。このうち、素性情報提供請求権制度とは、どういう仕組みですか。
一言で言えば、「物言う株主」に「物言う資格」を問うものです。英国、ドイツ、フランスには、株主の素性や属性情報の提供を企業側が請求できる仕組みがあります。これは重要な示唆を含んでいます。株主の属性情報の開示がなされない中で、「ファンド株主」と「自然人株主」との間に株主平等の原則が適用されるのか、例えばコンピューターを活用した高速取引(HFT)も急増するなど、株主の属性が多様化する中で「平等」はどうあるべきかといった課題です。フランスの場合、株式を2年以上保有する株主の議決権を2倍とする「フロランジュ法※」を制定しています。(※編注:フランス政府が2014年に制定。フランス政府は国内産業の保護を立法理由に挙げている。フランス鉄鋼大手の高炉閉鎖問題を機に制定され、高炉のあったフランス北東部フロランジュが名称の由来になった)。そもそも企業買収法制の確立は喫緊の課題です。欧州には「EU企業買収指令」、英国には「テイクオーバーコード」があり、その執行機関であるパネルが存在します。更に、米国でも州レベルの会社法に「反テイクオーバー法」が設けられているケースが多いです。これに対し、日本は体系的な企業買収法自体がないのです。日本だけでなく、多数決の濫用、支配株主の濫用に関しては色々な法理が蓄積されてきました。ただ、日本ではこれをほぼ活用せず、全体として買収関係の規範は弱まってきているように思います。
ファンドと一口に言っても、株式を長期保有するなど各々の運営方法や性格は異なります。その辺りはどう考えるべきですか。
藤沼先生のご指摘のとおり、ファンドだからと一括りには考えるべきではないです。それだからこそ市場への情報の開示が必要なのですね。また、素性に問題のありそうなファンドでも対価を払って株式を買った以上、配当やキャピタルゲインなど財産権は与えられるべきだと思います。逆に、そうでありませんと、少数者支配により大株主の出資が毀損されるなどのケースに対しては、支配株主に財産的利害を守る地位を認めるべきだと思います。今回の一連の騒動で私が感じたのは、株主の議決権が人間社会のあり方に関わるような問題について行使される場合には、人間の名においてなされる必要があるということです。会社や株主という仕組みの歴史においては、持ち株数が増えるごとに議決権数が逓減するといった法制や定款規定は普通のことでした。それが「1株1議決権」が原則とされたことで株主に過剰な支配権が与えられてしまったのではないかと思っております。株式の単位の均一性は財産価値の均一の問題で一株単位での価格形成を可能にし、株式市場を成立させた重要な原則ですが、それが何となく議決権まで均一の単位にしてしまった。このことには、さほど意味のある根拠はありません。企業は今、SDGsやESG、地球環境問題、サプライチェーンの末端にまで至る人権問題などで、意思決定に迫られる場合が非常に増えています。その際、会社の方向性は誰が決めるのか、株主が意見を述べるとして、その発言の根拠が出資、つまりカネだけでいいのか。私は、株主としての資質、それなりの資格をもっと問うべきだと思います。ファンドを含めて「物言う株主」には、発言する以上、発言責任を負わせるということです。「発言はしたけれど、株価が動いたので翌日には株式を売りました」では、「昨日の発言は何だったのだ」ということになりますね。重大案件ならば会社の将来、企業社会の将来を左右するかもしれない。発言したら、せめて半年や1年間は株式を売却させない、転売制限を設けるのも一考だと思います。意見を述べる以上はリスクを負うこと、物言う責任があるはずで、そこまで覚悟を持って発言できるか、あるいはそれにふさわしい主体が、支配株主であるべきではないでしょうか。株主も“Integrity”(首尾一貫性)を持つべきだと考えます。
東芝の問題は、色々な論点があり意見も様々です。ただ、企業として東芝自身にも問題が多かったのは確かですよね。
それはもちろんです。内部でガバナンスは機能していたのか否か、色々と反省すべき点は多々あるはずです。でも、「あんたには言われたくない」ということですね。
ACFE JAPANの会員は、会社に所属してCFE(公認不正検査士)として内部監査部門で働いている方などが多いのですが、法律あるいは大局的な観点から、監査やガバナンス、不正対策をどう考えるべきでしょうか。
法律的にいわゆる内部統制には二つの考え方があります。会社法の観点では「業務の適正に係る態勢」ということです。今の経営者は昔に比べて内部統制をしっかり構築していれば、不正発生時にも責任を問われないですが、逆に内部統制自体を構築していないことで責任を問われることが増えました。もう一つは、金商法が規定する財務に係る内部統制です。藤沼先生を前にして何ですが、要するに、日々の取引を経理部門はきちんと記録していくことです。そうした金商法の内部統制がちゃんとしていれば、会社法の内部統制、経営判断、社外取締役も機能するという流れですが、昨今の日本の法律家の中には、金商法の財務に係る内部統制の話をせず、会社法の内部統制、正確には業務の適正に係る態勢だけに注目している人が多過ぎると思います。先に述べた「公開会社法」のような法体系の下で一体化すればよいのですが、現状はそうなっていません。「会社法上の内部統制は業務の適正に係る体制なのだけども、金商法の財務に係る内部統制は、その一部だ」と言っている学者もいますが、明らかな間違いだと思います。昔は「監査とは、内部統制の信頼性をまず調べて、それがちゃんとしているから次に監査に入れるんだ」といった話を聞いて納得していましたが、今は新しい考え方も出てきているようですね。
最近は「リスクアプローチ」といった概念なども多いです。
ただ、私は、金商法による財務に係る内部統制が強行法で強制されているのはなぜか、という点を考えるべきだと思います。その財務に係る情報を日々きちんとシステム的に把握して、財務に係る情報を適時開示するための体制づくりがコアなのではないでしょうか。そこができていれば、その仕組みを監査役も社外取締役も、公的機関も信頼する。それを前提に経営判断も可能になり、経営判断原則もそこから先が確保されるのですね。
なるほど。私たち不正検査士も、会社法と金商法について過去の経緯や関係性、そして課題点を十分に理解して現状を認識することで、会社とは何か、そして不正防止や自分たちの仕事の意義を、より深く理解できるのだと思います。本日はどうもありがとうございました。