マドフ事件の告発者であるハリー・マルコポロス(CFE、CFA)とその調査チームは、ウォール・ストリートのほとんどの投資家はバーナード・マドフが何か怪しいことを企んでいると知っていたという事実を突き止めた。しかし、なぜ彼らは見て見ぬ振りをしたのだろう。 それは一言で言うと、強欲のなせる技であった。ここでは、マルコポロスが調査を開始することになるまでの話を彼自身の言葉で語ってもらう。
ハリー・マルコポロスの新刊「誰も聞き入れなかった:本当にあった怖い投資の話」の中で、いかにして調査チームと共に、破綻する何年も前にバーナード・マドフの650億ドルのポンジー・スキームを発見したのかを語っている。
当時、マルコポロスはランパート・インベストメント・マネジメント・カンパニー(マサチューセッツ州、ボストン)の計量アナリストであった(彼は、自分自身を“クォンツ”と言っている)。マルコポロスがマーケティング担当のフランク・ケーシーにマドフと同等の利益を配当できるような市場取引戦略のリバース・エンジニアリングを依頼され、その後、どのように調査に引きずり込まれたかを語っている。
ケーシーが1999年の収益源のコピーをマルコポロスに渡したとき、「この数字がナンセンスだとすぐわかった」と語っている。ページの下方の収益グラフは、確実に45度の角度で上昇していたが、こんなことは投資の世界ではあり得ないことであった。5分以内に私はフランクに言った。「これあり得ない。でっちあげだ」と。
2000年5月、マルコポロスは証券取引委員会(SEC)にマドフの不正に関する証拠を提出したが、SECは十分な調査をしなかった。「私はSECに5回報告したが、手遅れになるまで誰も聞こうとはしなかった。」
この抜粋においては、マルコポロスとケーシー、ニール・セロそしてランパートの定量分析官達がどのようにしてマドフを追い始めたかを記述する(のちに、調査報道官のマイケル・オクラントも調査チームに加わった)。
私達が発見したものについて理論的な説明はできない。それはまるで、気分よく散歩に出かけて、突然、グランド・キャニオンを発見したような信じがたいものだった。ニールと私は数字を崇拝している訳でも、信じている訳でもなかったが、数字が嘘をつかないことは知っていた。もし私達の計算が正しければ、マーケットとの相関(マドフの収益とスタンダード&プアーズ全体の動きの相関)は6%であった。その後も私達はその計算を続けた結果、常に45度右肩上がりのリターンを戦略実行のためにマドフが持っているべきオプション数は、彼の今までの巨大ヘッジ・ファンドは全くの嘘であることを示していた。
実際、私達は意図してマドフ事件の調査を開始したのでもないし、ディスカッションしたことさえなかった。突然、そのど真ん中に放り出されたのだ。特定の目的もなかったが、ただ何が起こっているのかを解明したいだけだった。
私達は、マドフのビジネスに関する情報をできるだけ多く集め始めた。フランクはその間、顧客になりそうな人達と会い続けた。通常、このようなミーティングにおいては、ポートフォリオ・マネージャーは自分の投資戦略の概略を説明するので、フランクは調査して機会をうかがっていた。このようなミーティングで会ったマネージャー達の中に ヘッジファンド・オブ・ファンズであるオール・ウェザー・ファンドのブロイヒルがいた。
1980年、ブロイヒル家はサウスカロライナの家具製造事業を売却して投資ファンドを設立した。ポール・H・ブロイヒルは、そのファンドのマネージャーとして「お金を失わなければ、お金を稼ぐのはとても簡単だ」と言った。フランクは、ニューヨークのホテルのロビーでブロイヒルの代表者と何度も会っている。彼らは、フランクに月に1%の利益を確実に生みだすという彼らの商品を見せ、保証してくれる銀行を見つけてほしいとフランクに頼んだ。あとで分かったことだが、同投資会社は二人のマネージャーに頼りきっていて、代表者たちは彼らをマネージャーA、マネージャーBとしか明かさなかった。フランクは彼から販促用パンフレットを貰ったが、そのなかの1ページにマネージャーBのリターン(投資成績)が載っていた。
フランクはそれを見て、すぐにマドフであるとわかった。幾つかあるマドフのファンドのうちの二つに遭遇するという驚くべき一致か、或いは、マドフの支配領域は私達が想像するよりもはるかに大きいかのどちらかだった。マドフはどれほど広く業界にその触角を広げているのか分からなかった。
この出来事は、私達が初めて掴んだ確かな証拠であった。フランクがその証拠書類を私に手渡すとすぐに分析をはじめた。ブロイヒルのファンドの説明はこう書かれていた。「ファンド・マネージャーの運用目標は、変動が少なく、一定して長期成長の見込めることだ。いわゆる“スプリット・ストライク・コンバージョン”という戦略を採用している」という一般的なマーケットと高い相関を持つ株式銘柄を購入するというものだった。マドフの顧客は、マドフの仲介で株の売り買いをしているので、取引フロー情報へのアクセスが簡単で、そのためにマドフは株価が上がる時期が分かるというのがマドフの残した僅かな無言のメッセージである。しかし、それが間違いであることを私は既に証明していた。それから、ブロイヒルの説明はこのように続いた。「望んだだけのヘッジを提供するためには、マネージャーはOEXインデックス・コールオプション(買付選択権)を全て売って、OEXインデックス・プットオプション(売却選択権)を全て買う。売ったコールオプションと買ったプットオプションの金額は、バスケットの中の購入株式の金額と等しくなる」。
これは実におもしろいことであった。多くの人と同じようにニールと私は積極的にOEMオプション取引を行っていたが、1990年代にS&P500オプション(SPX)が市場を支配し、S&P100OEXインデックスが端っ子に追いやられると、私もOEMオプションをやめた。私達は、一度に30,000種類という多くのオプション取引をしていた。このような取引をすると、誰だってマーケットで目立つ存在になるだろう。ブルームバーグはどのような取引がどれほどの金額で行われているか、どこのマーケットでいつ底を突いたか、そしてその後の状況をレポートしている。全ての取引情報がそこにあった。そして、その情報にマーケットは再び反応するのだ。取引規模やその他の情報を知らないままに取引することは不可能なのである。
もし、マドフが実際にこれらのオプションを買っていたら、私達は彼の取引の形跡を見ることができただろう。彼が説明するような投資成績を出すためには、その取引はマーケットの動きを反映したものになるはずである。しかし、彼がマーケットに居たという証拠は残っていなかった。彼は証拠を残さずにマーケットに出入りし、売り買いをしていたと考えられる。しかし、その後私は計算を始め、シカゴオプション取引所(CBOE)に計90億ドルのOEMインデックスのプットオプションがあることを知った。
マドフは、自分の投資は短期(30日以下)のオプションでヘッジしていると主張していた。現実的に購入できるのはそのうち10億ドルだけなので、マドフが自分の投資を守るためには30億~650億ドルのオプションを何度も購入する必要があった。この額は、実在するオプションよりもはるかに多い額である。これは息を飲むような発見であった。それは単にこの地上に彼が主張するだけの十分なオプションが存在しないということだった。
仮に十分な証拠がなく、これらのオプションが実際に存在したとしても、その購入費用はマドフが主張する利益を食いつぶしていたことになる。
また、彼が店頭市場で買わないことも私は知っていた。それは法外に高く、もし彼がそれを買ったらディーラーは上場市場でのリスクを分散するので目立った動きをとるであろうが、そういうことはなかった。マドフは店頭市場では買っていなかったからである。
ブロイヒルのマーケティングに関する解説は、あらゆる点において失敗だった。ブロイヒルのマネージャーBのマドフは、個人株のコールオプションを見込み利益を上乗せして売ろうと言いだした。これは、35銘柄の株式バスケットのうち、最も利益の見込める銘柄を売却することを意味していた。彼は上昇中の株式を失い、手元に残るのは著明に上がらないか、ずっと同じレベルに留まるか、下がるだけの株式だった。ある日、私はニールに言った、「いい株を購入したのに不利益を被る例を実際にみたのは初めてだ。」と。
ランパートでは、マドフが負っていた単一銘柄株のリスクはなかったものの、同じような戦略を取っていた。私達が全てのインデックスファンドと株式を購入した後に発見したのは、この戦略は3分の2のマーケット・リターンと、3分の1のリスクで成り立っていることであった。これは、マーケットが実際に上昇を始めるまでは良い戦略であった。もし仮にマーケットが15%以上上昇したら、私達は得られるはずだった全てのリターン以上のものを失っただろう。
1990年代、マーケットが1年で30%以上上昇したとき、私達は顧客に「マーケットは今年34%も上がったのに、あなたからのリターンは22%しかなかった」と言われ、顧客を失った。私達の保守的な意見など聞き入れず、ただマーケットが提供する全ての利益が欲しいだけだったのだ。もし、インサイダー情報によってマドフが最も業績の良い株を買ったら、同様の問題にぶち当たるであろうことを私は知っていた。
この時点までで、私達がマドフに出会って約2ヵ月間である。ランパート社以外で私達が話した人物といえば、ダン・ディバルトレモ(ノースフィールド・インフォメーション・サービスの創立者)と、レオン・グロス(シティ・グループのエクイティ・デリバティブ研究のチーフ)、その他数名の信頼のおける意見をくれる人たちや、マイアミのOTCブロックトレーダーとして働いている私の兄弟ルイだけであった。彼はヘッジ・ファンドの世界を知っており、多くの販促資料を入手できたので最初から、マドフは何か悪事を働いているという私達の意見に同意し、マーケティング資料の収集に貢献しはじめどんどん資料が増えていった。
幸運だったのは、その時点までは知らないゆえに、怖いもの知らずであったことである。潜在的に危険な場所に足を踏み入れることだとは夢にも思わなかった。少なくとも最初のうちは、業界の人に躊躇わずにマドフに関する質問をしていた。例えば、ブロイヒルの資料を調査したあとは、CBOEで一緒に働いていたブローカー達への聞き取りを始めた。彼らの多くは、長い間電話でのやり取りを通して一緒に仕事していたので、ある程度は知っていた。私が会話の中でマドフの話を持ち出すと、ほとんどの人はマドフのブローカーとしての手腕を知っていた。その秘密の資産運用会社については何も知らなかったが、それは驚くようなことではなかった。
私は多くのトレーダーにマドフの出来高を知っているかどうか聞いたが、皆知らないと答えた。しかし、マドフがへッジ・ファンドを運営しているのを知っていた数人のトレーダーは、彼の連絡先を教えてほしいと尋ねてきた。誰もがマドフと一緒にビジネスをしたがったが、彼とビジネスをしていると認めるものはいなかった。それはまるで、真夏の午後にタイムズ・スクエアを裸で歩くくらい目立つことなはずなのに、誰も彼を見ていないというのだ。マドフは本当に謎だらけの男だった。
私がこの調査を続ける動機は、基本的には自己防衛のためであった。私の上司はマドフのビジネスを狙いうちできるよう正確に映しだせとプレッシャーをかけ続けた。自分で勝手に数字を細工しているマドフと同じような数字を再現するのは不可能だと私は知っていたのでただそのプレッシャーから免れたかったのだ。私は上司達が間違っていることを理論的に証明したかった。
もちろん、私は自分が探偵だとは思っていなかった。刑事コロンボのようなトレンチコートも持っていないし、エドモンドのように克服しなければならない身体的ハンディキャップもなかった。テレビ番組「ナイト・ライダー」でマイケル・ナイトのように、危ない時には助けに来る“喋る車”は持っていなかったが、代わりに私にはニールとフランクがいた。私達の唯一の武器は、多くの知識と名刺ホルダーだけであった。
それに加え、私が持っているのは、魚の窃盗事件を解決した経験(父と2人の叔父が経営する12 Arthur Treacher’s Fish and Chips というレストランでの盗難事件解決の調査)と軍隊トレーニングだけだった。私は17年間、陸軍の予備役応変部隊で将校として勤務し、そのうちの6年を特殊作戦隊の民事事件チームで過ごした。さらに、長年、昇格する陸将補のボイド・クックの指揮命令系統の下で働いた。ボイド・クックは、退職後はメリーランド州で酪農業を営んでいて、私は彼から多くを学んだ。
クック大将は愚か者を許したりせず、将校達にも精いっぱい働くことを強いた。彼は将校達に自分達のいちばん大きな失敗は何かと尋ね、失敗の大きさが不十分だと、全力を尽くしていないとクビにされた。大きな失敗をしなければ、大きな成長は成し得ないという彼のポリシーの元、私達の部隊は常に新しいことに取り組んでいたので業績は良かった。全てが成功したわけではないが、成功したものについては著しい成功をおさめたのだ。また、それが何だったかは特に覚えていないのだが、おもしろいことに、ある年私の失敗が大将を喜ばせた。私が引き下がらずに新しいことに挑戦したという事実を気に入ってくれたのだ。
クック大将は、でたらめなことには我慢できなかった。彼はいつも、よいニュースではなくて悪いニュースを知りたがったし、部下の将校達の質を見極める時、将校自身との会話の内容によって見極めるのではなく、彼らが指揮している軍の隊員に質問することで見極めた。軍隊勤務で学んだ粘り強さ、人からの情報収集テクニック、インタビュースキル、平静を保つ能力などは今回の調査で大いに役立った。
私達は調査を始めた。金融業界における基本的な情報収集方法は3種類ある。ひとつは、公式に入手可能な情報である。これには、販売促進用の印刷物、会社の事業設立のプレゼン資料、その他ウェブサイト上で入手可能は情報すべてである。私達はマドフのウェブサイトから全情報を取ったが、価値あるものはなかった。2つめは、次に、どれだけ奥義を極める内容であっても自分が必要とする情報をあらゆる情報筋から購入することもできる。誰もがこの情報にアクセスできる。3つめは、最後に、ニールにも教えたのだが、本当に重要な情報は人との会話の中や噂話、自慢話、苦情から聞き出すことができる。
私達は、この3つの方法を全て行った。一度アクセス・インターナショナル・アドバイザーズと取引を始めると、そこはマドフのフィーダー・ファンドの中でも大きいほうだったので、その全てのデータを得ることができた。フランク・ケーシーは、「マドフへの投資に興味がある」と彼らに言って自分の方法で資料を集めていた。また、私達がそのファンドからなにか特定のものが欲しければ、私の兄弟ルイが「マドフへの投資に興味を持っている人がいるんだ。手伝ってくれないか?」と交渉してくれた。
ウォール・ストリートの人々と話すと、非常に情報が豊富であることがわかった。ほとんどの人が仕事上の話をするだけだったが、機会があるときにはマドフに関する質問をした。研究者やトレーダーのチーフ、デリバティブ部門、ポートフォリオ・マネージャー、投資家などの上層部と話す機会があった。ニールも私と同じように聞き取り調査を行っていたが、私達はともに極秘で行った。というのは、私達のボスに知られたら、即刻中止を言い渡されたであろう。
私を最も驚かせたのは、多くの人々がマドフの不正行為を知っていたことである。数年後、マドフが捕まった後、最も多かった質問は「それだけ多くの聡明な人達が知らなかったのはなぜだろう?」や、「いかにして、マドフはその分野に長けている人達をこれほどの長期間騙すことができたのか?」ということであった。彼は騙してなどいなかったのだと私はすぐにわかった。バーナード・マドフのビジネスで、何か奇妙なことが起こっているという事実は、ウォール・ストリートでは秘密ではなかった。私が色々な人への聞き取りを開始してすぐに、人々はマドフの主張に対して長い間疑問を持ち続けていることを知った。しかし、マドフの主張に疑問を持った人達でも、そのリターンが自分の懐に転がり込む限りは、マドフの戦略やあり得ない説明を受け入れていたのである。
私が聞き取り調査の中で得た反応では、そのファンドの多くの人は、マドフのリターンは正確だったと言った。しかし、マドフはフロントランニングという違法の手段を用いて利益を作りだしていた。マドフはブローカー・ディーラー会社への手数料を支払うことによって、ユニークな方法でマーケット情報を得ていた。マドフはどの株が上がるのかを知っていたので、その銘柄を安値で買ってバスケットに入れ、証券会社に高値で売ることができたのだ。
マドフが何を行っていたかをほとんどの人たちは知らなかったのだ。さらに、ウォール・ストリートにはマドフほど、情報量が豊富な者は誰ひとりいなかったことや、彼のように一定の利益を継続して作りだした者はいなかったことも挙げた。これら2つの事実を合わせて考える時、マドフは顧客からのお金を自分のヘッジ・ファンドを援助するために使っていたと推察される。ニールはファイナンスの修士課程の時、注文に対する支払いの流れを分析したことがあり、マドフの手法の強みを確信した。しかし、強みといっても実際にマドフが客に配分している利益を生み出すまでにはならないはずだ。
マドフが投資家からお金を預かる目的で自分のヘッジ・ファンドを使っていたという秘密を、もちろん極秘にではあったがニールと私に話してくれた人もいた。この人達によれば、マドフは実質的に利益として毎月支払った額の1~2%を超える相当な額を稼いでいるため、配当は彼の利益を得るためのコストに過ぎなかった。これは教養ある投資家達の話である。この話を聞いた時、首を振ってこのようなことを実際に信じているのかを聞いてみたかった。マドフは12%もの利息を払うことなく、もっと低コストでお金を得る方法はたくさんあったはずだ。このことについて、理に叶った説明をするとすれば、彼はムーディーズ・インベストメント・サービスやスタンダード&プアーズのような格付会社が評価をしにくるリスクを回避したかったとしか考えられない。
ほとんど信じ難いような話もいくつか聞いた。教養ある投資家が、本当は何が起こっているのかを知っていながらそれが続くことを望んでいたらしい。落とし穴に気づくだけの教養は持ち合わせているため、それを埋め合わせるために非合理的な説明を考え出したのだろう。たとえば、スプリット・ストライク戦略はどのマーケット環境においても利益を生み出されるわけではないので、マドフがどのような方法で常に利益を生み出したのかを説明する必要があった。
「ハリー、僕はこう考えている。」とポートフォリオ・マネージャーは私に言った。 「マドフは非常に頭がいい。投資家を満足させるために変動が小さいことを説明するのは重要だ。だから、マーケットが下がっているときにも利益を配分するのだ。言い方を変えれば、マドフのファンドが数カ月間損をしても、その損失を吸収しさらに投資家に利益を配分する。「彼は損失をカバーできる」というこの説明はマドフをウォール・ストリート史上 、最も優れた投資マネージャーに押し上げた。彼は投資家に損をさせないのである。
ニールは、この提案された投資戦略について母校ベントレー・カレッジで学んだことがないと教えてくれた。このような説明を聞くと、お互いに顔を見合わせて笑った。笑うしかなかったのだ。この人達はカーテンの後ろ側を見るのを拒否しただけでなく、マドフが持つ本来の力よりもはるかに偉大な力を与えていたのだ。
見たところでは、マドフはマーケットを完璧に読める能力を備えていた。彼のマーケット投資は年にたった6~8回、それも2~3日から長くても3週間の短い間だとマドフは語っている。幸運なことに、マドフはマーケットが上昇しているときだけ投資する、という能力があった。私は彼の収益グラフが1999年7月~12月の間に急激に下がっていることに気がついた。マドフに投資している人に、その数カ月、マドフがどのように損失を免れたかと問いかけたとき、その人はこう答えた。「マーケットが下がっているとき、彼はマーケットにはいなかった。マーケットが下降すると感じれば、そのお金をマーケットから引き揚げてお金は100%手元にある」。その証拠があったのだという。その人はマドフの取引メモのコピーを持っていた。
最初の2~3週間で私とニールが聞いた情報の中で最も衝撃的だったのは、私達が聞き取りをした人々の大多数は、実際にはマドフに投資をしていなかったということだ。彼らはそのことには触れたがらなかった。ただマドフと取引はしていないとしか言わず、詳しく話してくれなかった。しかし、ウォール・ストリートの大会社のトレーダーのひとりはこう言った。マドフは投資家に話しを持ちかけようとしたことはあるが、マドフが最低限のデューデリジェンスを拒否したので投資家はマドフに投資をしなかった。彼らは、通常の金融調査を行い、マドフが合法的であるかどうかを確かめたかったのだが、その申し出は拒絶されたのだ。明らかな警告シグナルであった。
デューデリジェンスには様々な種類があり、その目的は数字が真実であるかを確認することである。取引メモの照合、記録された時刻、価格、各取引金額などのデータ全ての記録を監査する。また、ファンド・マネージャーの素性調査にまで及ぶ。デューデリジェンスを全て行うには、数カ月を要し、10万ドル以上かかる。しかし、何億ドルもの大金を投資するなら少しばかりのお金を節約している場合ではないだろう。
ロンドンに拠点を置くヘッジファンド・オブ・ファンズはフランクに似たような話をした。そこでは多額のアラブのオイル・マネーを所持しており、マドフに投資する前に6大会計事務所のうちの1社を雇って彼のパフォーマンスを検証する許可を求めた。しかしマドフはそれを拒否し、帳簿の監査という秘伝のソースを見ることができるのは、義理の兄弟が経営する会計事務所だけだと言い放った。この話は複数の情報源から耳にした。デイビッド・フリーリングは1992年から17年間マドフの会計士をやっているが、実際には義理の兄弟ではなかった。
フリーリングは、ニューヨーク州北部のニューシティで小さな会計事務所を経営していた。マドフが彼のことを親戚だと言ったのは、これほど大規模のヘッジ・ファンドが田舎の2人体制の小さな事務所に会計監査を任せる上でもっともらしい理由が必要だったからと思われる。義理の兄弟であろうとなかろうと、これが停止信号となるべきであった。そこそこ優秀なファンド・マネージャーでさえ、「ありがとう、マドフさん。でももう結構です」と言って、反対方向にできるだけ速く走って逃げるべきである。しかし、このファン・オブ・ファンズはそうではなかった。それどころか、投資家に何億もの資金を委ねられていたこの投資会社はマドフに2億ドルを渡した。この会社は、投資会社の検証方法に精通していながら調査を拒否されても尚マドフに2億ドルを託していたのだ。
フランクもニールも、そしてこの私も誰ひとり騙されることはなかった。わたしたちは、この業界において手抜きや、不誠実や、金融詐欺を長い間たくさん見てきた。しかし、私は、非常に聡明な人たちがマドフを弁護しているのを見たときにはさすがに驚いた。聡明な投資家達は、マドフがデューデリジェンスを断った後でも、強欲と愚行を重ねて数億ドルもの資金をマドフに渡していた。
フィーダー・ファンドは、基本的には大規模な主要ファンドのために資金を供給するファンドである。そのフィーダー・ファンドは、知り得ることはなんでも知っていたのだ。マドフがお金を作りだすことも、自分たちのお金を6年間投資用として預けておけば、当初の2倍に増えることも。だから、彼らは時間を見方につけることにしたのである。彼は特別異常なわけではなかった。
マドフだけが詐欺行為を働き、それ以外の人全てが正直だったというわけではない。彼らは皆、ウォール・ストリートのビジネスがどれほど裏で行われていたかを知っていたのである。マドフはその一例に過ぎない。マドフがブローカーとして違法なフロントランニングを行っていたことを想定していただろうが、ウォール・ストリートはマドフの詐欺行為を受け入れたのだ。そして、マドフは顧客が信用できる詐欺師だった。彼らにとっては、少しもリスクを負うことなく利益を獲得できる良い取引だった。
これは全くの私の想像なのであるが、投資家たちはマドフが捕まって、不正手段で得た利益の獲得は終わったとしても、それまでに得た自分のお金は無事であると考えたのかもしれない。安全だと信じていただろう。なぜなら、バーナード・マドフは、ビジネスマンとして尊敬されていたし、篤志家としても政治献金家や自称NASDAQの共同設立者としても偉大な人物として尊敬されていたのだ。
私達にはマドフの真の人物像が見え始めた。他人を食い物にするモンスターであり、詐欺師の名人である。
残念なことに、私達は調査を始めたばかりに過ぎなかった。ましてや、その後の8年間に出くわす出来事について想像すらつかなかった。
ハリー・マルコポロス CFE,CFA
出版社であるJohn Wiley & Sonsの許可を得て、ハリー・マルコポロス著 “No One Would Listen,” から掲載した Copyright 2010 by Harry Markopolos.
コラム
マドフ逮捕後の名誉回復
2008年12月11日の朝、ニューヨークのある不動産デベロッパーがニューヨーク発ロサンゼルス行きのジェットブルー便に乗り、背もたれの小さなテレビ画面でCNBCを見ていた。すると、ウォール・ストリートの伝説的な人物で、NASDAQの前総裁バーナード・マドフが史上最大のポンジー・スキーム詐欺を行った罪で逮捕されたとニュース速報が流れていた。デベロッパーは静かに座り、数秒間ニュースに吸い込まれていった。そんなはずはない、と思ったが、速報は繰り返し流れていた。彼は妻に目をやり、信じられないだろうが、バーナード・マドフは詐欺師で、私達の投資した何百万ドルものお金は全てなくなったことを伝えた。予想通り、妻は信じなかった。「そんなことあるわけないじゃない」と言って、雑誌の続きを読んでいた。
デベロッパーは呆然として飛行機の後方にあるフライト・アテンダントが集まる調理室に歩いていった。彼は丁寧に「すみません、私今ここで降りたいのでドアを開けて頂けますか?ご心配なく。パラシュートはいりませんので。」
12月のある日の午後5時15分頃、私は5歳になる双子の息子達が空手の基本動作を練習するのを見ようと思い、地元 ニューイングランドの小さな町の道場に行った。その日は一日中曇っていた。雨が降ったり止んだりして、嵐が来そうだった。携帯電話に留守電メッセージが何件か入っていることに気付き、携帯電話の振動を感じなかったので変だな、と思った。私はメッセージを聞くためにロビーに移動した。
最初のメッセージは友人のデイブ・ヘンリーからであった。彼はボストンのDKHインベストントの最高投資責任者(CIO)で、巨額の資金を動かしていた。彼のメッセージには「ハリー、マドフは ポンジー・スキームを働いた罪で連邦警察に捕まったよ。ニューヨークで逮捕されたんだ。電話してくれ」という、はっきりしたメッセージだった。私の心臓の鼓動は早くなった。2件目のメッセージも親しい友人、アンドレ・メータからだった。彼は“スーパー・クォンツ(定量分析専門家)”であり、他の投資会社ケンブリッジ・アソシエイツの マネージング・ディレクター(担当責任者)で、年金プランや寄付金のコンサルタントである。彼は興奮した声で、「君は正しかったよ!ニュースを見たかい?マドフが逮捕されたよ。巨大なポンジー・スキームを行っていたらしいよ。ブルーグバーグのいたるところに載っているから電話してくれれば記事を読んであげるよ。おめでとう」
私は倒れそうになった。何年もの間、私がマドフを追跡することで私自身も私の家族までも危険にさらしているのではないかという恐怖に怯え、まるで死刑宣告をうけたような気持ちで暮らしていた。数十億ドルの金が出資されていたが、自分の投資金を守るためなら人を殺しかねない一部のロシアのマフィアや 麻薬カルテルのものだったであろう。また、ピーター・スカンネルについてはよく知っていた。彼はボストンの告発者で、数百万ドルの闇マーケット詐欺について批判しただけで、レンガで殴られて死にかけたのである。そんなわけで私は、車の本体やタイヤがちゃんと動くのを確認してからでないと、エンジンをかけたことがなかった。また、夜間には人影からは離れて歩き、銃をベッドの傍に置いて眠った。そんな生活が突然に、予期せぬ形で一瞬にして終わった。ついに終わったのである。警察はマドフを捕まえた。私は初めてこぶしを挙げて空高く叫んだ。「良かった!」家族は無事だった。それから、木の手すりに倒れこんだ。落下しないように手すりを掴み、呼吸するのがやっとだった。私が指をパチンと鳴らす間もなく、疲れ果てた状態からエネルギーが満ち溢れた状態に変わった。
私はまず電話をくれた人に連絡しなければならなかった。それに詳しい状況を把握する必要もあった。電話番号をプッシュしようとしたとき初めて、自分の手が震えていることに気がついた。デイブに電話すると、バーナード・マドフが 数十億ドルの投資会社は全て詐欺であると2人の息子に打ち明けたと報道されていることを教えてくれた。実際に投資していなかったことも息子に話したのだ。投資は全くされていなかった。それどころか、20年以上もの間、歴史に残る最大のポンジー・スキームを行っていたのだ。彼の息子達は、直ぐに連邦捜査局(FBI)に連絡し、FBIエージェントが早朝にマドフのアパートに行き、マドフに手錠をかけて連行した。何千人もの人が数十億ドルを失ったようだ。私がアメリカ政府に注意喚起を促したときは、まだ550億ドルの早期だった。
道場のロビーに立ちながら、安心感は直ぐに新しい心配に変わった。私のところにある山のような書類はすべて、証券取引委員会(SEC)の評判を落とし、彼らのキャリアを終わらせ、おそらく、政府に飼われたウォール・ストリートの番犬 SECそのものを堕落させるだろう。もちろん、私が本を書いて出版する前に政府がこれらの書類を押収しなければの話だが。私は子供たちの手を引き、家路を急いだ。
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