3つの監査機関―国、企業(内部監査)そしてアーサー・アンダーセン(Arthur Andersen)のいずれも、中東のオイルタンカー会社の幹部たちが10年間に1億ドルを横領していた事実を発見できなかった。不正検査士(CFE)は、この多額損失の事例から、何が悪かったのかを検証し、不正の兆候(red flags)や防止と発見の方法を見出すことができる。
クウェートオイルタンカー社(Kuwait Oil Tanker Company, 以下「KOTC」)の役員3人は、清廉潔白で保守的な管理職のように見えた。彼らは、1980年代のイラン・イラク戦争や1990年代の湾岸戦争の荒海の中で、落ち着いて輸送会社の舵を取っていたように思われた。しかし、会社の信託を受けたこれらの役員は、会社を自分たちの個人的な貯金箱として利用していた。
10年間にわたり、KOTCとその100%子会社であるSitka Shipping社(Sitka Shipping Incorporated,以下「Sitka社」)は、不正3人組によって仕組まれた横領とキックバック手法により、1億ドルを失った。3人のお偉方(および様々な共犯者)は、不正を犯すのに最適な環境を悪用した。イラン・イラク戦争は、会社の財務状態を不安定なものにした。何年もの間、KOTCは財務活動を監督するための重要な役職を空席にしていた。また、財務損失の可能性を調査するために会社に雇われた監査人は、判明事項を不正の当事者である会社のトップ自身へ報告するというミスを犯した。これらは、10年間にわたり会社から何百万ドルという大金を盗める完璧な地位に3人の役員を居座らせた要因の一部である。彼らの複雑なたくらみは、ラドラム(Ludlum)の小説に匹敵するものであった。
オイル・タンカー戦争の歴史 不正行為の頼みの綱
(HISTORY OF THE OIL TANKER WAR: THE ANCHOR FOR FRAUD)
当時中東で高まっていた緊張は、イラン・イラク間で続く熱い戦いの一部として、1984年、二国間における「オイル・タンカー戦争」を引き起こした。この時期、KOTCはクウェートの石油製品と原油の輸出、およびその海洋貯蔵(off-shore storage)の責務を担っていた。同社は、自社所有のタンカーおよびSitka社を含む海外子会社を通してチャーターされたタンカーを使用していた。また、KOTCは、新・中古タンカーの売買も行っていた。その間、イランはペルシャ湾においてKOTCの船舶を標的にしていた。
1986年、最高石油会議(Supreme Petroleum Council)は、戦略的海上石油備蓄(Floating Strategic Oil Reserve)の創設を命じた。同会議の命令を実行するために、国営クウェート石油会社(Kuwait Petroleum Company, 以下「KPC」)の役員会は、その年の5月、KOTCに対し、戦略的海上石油備蓄として原油を輸送するために外国船をチャーターするように指示した。クウェート船が標的にされたため、KPCは、KOTCの秘密の子会社の一つであるSitka社が備蓄のためのチャーター会社になるように薦めた。
KOTCは、通常いくつかの仲買業者と取引すべきところ、ロンドンの船舶ブローカー会社であるエイチ・クラークソン・アンド・カンパニー(H. Clarkson & Co. Ltd,以下「Clarkson社」)のみと取引を開始した。KOTCの船舶運営マネージャーであったティモシー・スタッフォード(Timothy Stafford)船長とKOTCの会長兼社長、KPCの取締役社長、Sitka社の取締役を兼務していたアブドゥル・ファタ・アル・バーデ(Abdul Fattah Al Bader)は、Clarkson社をチャーター・ブローカーとして利用することになっていた。(チャーター・ブローカーの役割は、互いにとって有益なビジネスを促進するために、借り手と船舶の所有者を引き合わせることである。船舶の所有者と借り手の関係を規定する契約は、用船契約(Charterparty)と呼ばれる。)
スタッフォードは、アル・バーデ直属の指揮下にあった。後に明らかになったように、アル・バーデとスタッフォード、そしてKOTCの副社長(Deputy Managing Director)であったハッサン・アリ・カバザード(Hassan Ali Qabazard)が、横領スキームの主犯格であった。
多数の不正スキーム (SCHEMES GALORE)
複雑な不正とは、KOTCの財務マネージャーであったナシム・モフシン(Nasim Mohsin)の協力のもと、上述の役員3人によって行われた多くの悪質な取引から成り、以下の4つのスキームに分類された。
スキーム1:チャーター船の手配と手数料
(Charter arrangements and commissions)
通常であれば、Sitka社は、Clarkson社の紹介を通じて、船舶所有者から直接チャーターしたであろう。しかしながら、アル・バーデとスタッフォードは、域外の架空名義会社(phony nominee offshore shell companies)を使い、固定価格ベース(一定期間にわたり合意したレート)により、Clarkson社を通じて19隻のチャーター契約をした。
一方、当該架空会社はSitka社と、チャーター料のレートを除いて全く同条件の用船契約を同時に締結する。そうすることで、架空会社と船舶所有者の間に発生する紛争や問題がそのまま架空会社とSitka社の契約に確実に反映されることになる。
アル・バーデは、船舶所有者から架空会社への請求額にどれだけ上乗せしてSitka社へ請求するかを決定していた。スタッフォードは、架空会社のサインをでっちあげて、Sitka社と架空指定会社の両方の署名をした。Clarkson社からすれば、取引相手の名義(nominee)はKOTCだが、KOTCからすれば、元々の船舶所有者との取引ということになる。用船契約の支払いは、スイス・ジュネーブのBMB Trade and Investment Bankに設けた3つの匿名番号口座(numbered accounts)のうちの1つに分配された。
その3つの銀行口座は、実際はジュネーブでスタッフォードがアル・バーデと共に開設した個人口座であったが、銀行記録上の名義は架空会社になっていた。(アル・バーデは、スタッフォードを署名者として、4つ目の口座を自分の名義で開設した。)
アル・バーデとスタッフォードは、架空会社から船舶所有者に支払われるべき金額(架空会社がSitkaに請求する額から秘密の差額を差し引いた額)を船舶所有者の口座へ送金し、その差額を4つ目の口座、アル・バーデの個人口座へ送金した。詐取された金額は蓄積され、アル・バーデとカバザード、そしてスタッフォードは瞬く間に裕福になった。
Clarkson社への船積み取扱口銭(”address”commission,用船主が用船部門コストを賄うために船舶所有者へ請求する金額)の支払いの流れは、アル・バーデらが飛びついたもう一つのうまみのある資金源だった。
それぞれの用船契約について、Clarkson社は船舶所有者に2.5パーセントの手数料を請求していた(通常、Clarkson社の手数料レートは1.25パーセントの基準レートである)。アル・バーデはClarksonに対し、KOTCは「戦略的基金」を準備しており、1.25パーセントの追加手数料によって賄われていると述べた。1986年11月、Clarkson社は、これらの口銭支払いのために、内部の勘定科目を開設した。
1986年11月から1987年12月にかけて、更なる口銭が内部勘定に記帳された。Clarkson社は、これらの資金を3人の不正実行者の指示どおりに、現金とトラベラーズチェックで支払ったのだろう。KOTCの役員会では、これらのスキームについての議論はなされず、アル・バーデも決してそのことに触れなかった。アル・バーデは、Sitka社がなぜ市場価格以上の手数料を支払う必要があるのかについて、Sitka社の取締役会へは説明せず、KOTCとSitka社が、船舶所有者に請求される口銭を受け取る権利が与えられていることも明らかにしなかった。
スキーム2:船舶売買取引と造船
(Vessel sale and purchase transactions and vessel construction)
1988年、アル・バーデは、KOTCが市場で新・中古船舶を探しているとClarkson社に伝えた。アル・バーデとカバザードは、Sitka社の用船プログラムと同じように、売買取引によって、Clarkson社の勘定へ支払われる超過手数料の支払いが上昇するとClarkson社に話した。KOTCはClarkson社を通じて船舶を売買し、Clarkson社は指示どおりに手数料の一部を不正に手を染めた役員たちへと転送した。KOTCがスクラップとしてタンカーAl Rawadatainを売却したとき、Clarkson社は、買い手から20,676.34米ドルを、KOTC から99,246.45米ドルを得た。カバザードは、3パーセントの手数料条項を不正に売買契約書に盛り込んだ。
Clarkson社の内部メモによると、Clarkson社の通常のKOTC勘定に加え、彼らは99,245米ドルをKOTCから受け取ることになっていた。KOTCの副社長であったカバザードは、彼が船舶の引渡しのためにロンドンを訪れた際に、Clarkson社に留め置かれていた、以前の手数料により生じた99,245米ドルと3万5千ポンドをトラベラーズチェックで入手した。これが、これらの不正取引による資金をClarkson社がカバザード(及びアル・バーデ、スタッフォード)に現金と小切手で渡した最初の例であった。
後の取引では、KOTCはClarkson社と2隻の中古船の購入に伴い3パーセントの手数料(180万米ドル)を支払う契約を取り交わした。最初の取引と同じように、Clarkson社の実際の手数料はそれよりも少なく(1隻あたり27万米ドル)、残りの合計126万米ドルがジュネーブのアル・バーデの口座へ預金された。また、Clarkson社は2隻の船舶の売り手から受け取った手数料600万米ドルをアル・バーデの口座へ移した。数日後、アル・バーデは、これらの金額のうちの141万米ドルをロンドンのカバザードの口座へ送金した。
同じように、Clarkson社は新船建造による資金金額を転送した。KOTCは、造船市場を査定するために、1隻あたり30万米ドルをClarkson社に支払った。ある取引においては、Clarkson社は新船2隻分として60万米ドルを正当に受け取ったが、そのうち55万米ドルを別のジュネーブのアル・バーデの口座「Gulf Shipping」へ移した。その後、Clarkson社は、造船主からの手数料の中から、さらに数百万をGulf Shippingへ送金した。
スキーム3: 戦争リスク保険料払い戻し金の流用
(Diversion of war-risk premium rebates)
ペルシャ湾で取引をしている船舶の所有者として、KOTCの船体保険引受業者は、KOTCに対して戦争リスクに伴う追加保険料の支払いを求めた。(船舶が戦争地帯に立ち入るときはいつでも、戦争による船舶や貨物への損傷を担保するため、戦争リスク保険を購入しなければならない。)
ロンドンの保険ブローカー、Sedgwick Marine & Cargo Ltd.(以下「Sedgwick社」)がその保険を扱っていた。船舶が損傷を受けずに戦争地帯での航海を終えた場合、しばしば、船舶は保険料の払い戻しを請求する資格を得ることがあった。カバザードはSedgwick社に、KOTCのエージェントとしてClarkson社へ保険料の払い戻しをさせるように手配した。1990年9月から1992年6月までの間に、Sedgwick社はClarkson社に対し、合計6,026,803米ドルを払い戻した。その金額のうち、合計6,009,048米ドルがGulf Shippingへ移された。Sedgwick社は差引残高のほぼ全額を、現金やトラベラーズチェックでカバザードへ渡した。
イラン・イラク戦争中とクウェートが1991年2月の終わりに開放されてから1992年の2月までの間、Sedgwick社は継続してClarkson社へ保険料を払い戻し続けた。1992年、Sedgwick社は最後の支払いとして、カバザードへ17,754.66米ドルをトラベラーズチェックにより支払った。
スキーム4:偽の請求書や口座からの引き出しを含む様々な取引
(Various transactions including use of false invoices and withdrawals)
アル・バーデは、1985年12月から、1回何十万ドルという多額のトラベラーズチェック購入を隠ぺいするために、KOTCの銀行口座から小切手を振り出し始めた。メッセンジャーが銀行からこれらのトラベラーズチェックを集め、カバザードのアシスタントであるナシム・モフシン(Nasim Mohsin)が他の者たちのためにサインし、また、カバザードも引き出しを行った。KOTCのファイルには、これらのトラベラーズチェックの購入に関する書類はなく、銀行は「送金」とのみ記録した。
また犯人たちは、偽の請求書を用いた着服も行った。ある例では、Sitka社の代理として、カバザードはKOTCが口座を保有する銀行から、銀行手数料を差し引いて215,699.38米ドルのトラベラーズチェックを要請した。本件の調査員は後に、Sitka社のファイルの中から、Clarkson社からKOTCへの偽造された請求書を見つけた。それは、215,699.38米ドルの仲買手数料であり、併せて、カバザードがその偽造請求書への支払いとして、同額をロンドンのClarkson社の口座へ送金するように銀行へ指示する手紙のコピーを装った、偽の書類の存在も明らかになった。Clarkson社への支払いは行われなかったが、トラベラーズチェックは入手され、購入スリップの大半にはアル・バーデが署名し、残りにはカバザードが署名した。後に彼らは、いくつかの偽造請求書による取引を実行した。それは、ホルムズ海峡の外で石油シャトルサービスを提供するためにチャーターされた3隻の船舶に絡むものであった。
発覚 (THE DISCOVERY)
1991年2月の終わり、KOTCの役員を含むクウェート人が、湾岸戦争における同国の開放を受けて自国に戻ってきた。アル・バーデは、侵攻の最初の月、1990年8月終わりにクウェートを去っていた。カバザードは侵攻の際にはクウェート国外にいた。スタッフォードは、1989年にKOTCを退職していた。
アル・バーデとカバザードは、KOTCで元の職に戻った。モフシンは、避難先のヨルダンから戻らなかった。アル・バーデは、1992年1月29日に引退した。カバザードは1992年4月に辞職し、その後、辞職を撤回しようとしたが、認められなかった。結局、彼は1992年6月にKOTCを去った。
最終判決で論じられていない理由により、アブダラ・アル・ルーミー(Abdullah Al Roumi)がKOTCの新しい会長に就任して間もなく(そして、前KOTC取締役メンバーによる摘発の後に)、アル・バーデの親戚であるナーデル・スルターン(Nader Sultan)は、彼にアル・バーデの告白について明かした。それは、チャーター船に関する彼の無分別な行為についてだった。アル・バーデの後任であるアル・ルーミーは、見返りのチャーター契約と手数料レートの差の存在を発見した。
判決によると、後に他のスキームについても「彼の注意を引くことになり」、アル・ルーミーは、KOTCから資金を移すために用いられた方法について目を向け始めた。
1992年12月、アル・ルーミーは、ロンドンにてClarkson社の役員を訪ねた。そして、1993年1月4日、アル・ルーミーは彼が発見した事実をKPCの取締役会に報告。取締役会の承諾を得て、アル・ルーミーは検察当局へ報告し、当局は調査を開始した。1月5日、アル・バーデはロンドンへ逃亡した。2日後、カバザードはクウェートにて逮捕され、1年間の収監後、保釈金を払って釈放された。1993年の間、検察機関は、まだロンドンにいたアル・バーデやオーストラリアに逃亡したスタッフォードを除き、多くの証人から事件に関する話を聞いた。カバザードは何度も聞き取り調査を受けた。3人の犯人は皆、クウェートで有罪が宣告されたが、判決は何らかの理由(technicality)により留保された。前石油大臣も告訴され、裁判所(Ministers’Court)の特別委員会による調査結果を待っている状態である。
この事例から得られた教訓 (LESSONS LEARNED)
我々は、この事件を振り返り、監査人がより早く事態に気付くことができたかもしれない手がかりについて考えてみる必要がある。後知恵とはなるが、どうすればより早く不正に気付けたのかを理解することができる。
上級役員達は10年にわたり私利私欲のために会社の資金を不正流用したが、その活動の詳細な記述を読む監査人もしくは不正検査士は、あらゆる局面で不正の兆候が見られたことに気付かなければならない。
最初の教訓は、アル・バーデが辞職して交代するまで、不正が発見されなかったことである。会長であるアル・バーデや彼の次席であったカバザードがKOTCに勤務していたとき、彼らは不正の証拠を隠すことができ、調査の目をそらしたり妨害することができた。取引に関して複数の承諾を必要としたり、財務に関する責任を分離するといった内部統制の仕組みが、彼らの犯罪の防止・発見に役立ったかもしれない。不正に関与したごく少数の者、特にアル・バーデと彼の財務担当取締役は、ほぼ完全に管理を掌握しており、組織を不正リスクにさらすことになった。KOTCにおいて管理部門を率いるはずの副社長の役職は、1980年代を通じて空席のままだった。重要な管理職のポジションが不在であれば、横領のリスクが高まるのは当然である。経営陣は、この役職を何年も前に埋めるべきであった。
もちろん、戦時中は、KOTCはクウェート政府事業の延長として運営されていた。政府はKOTCに機密性の高い仕事を与え、それは極秘の扱いが求められた。また、同社は戦略的海上石油備蓄を組織し、それが公になることを望まなかった。しかしながら、そのような責任を担い異例の手段を用いること、そして機密保持のために情報の共有を必要最低限にする状況は、不正の温床となる。もし、そのような活動が必要とされるのなら、財務に関して、容認され得るあらゆる警戒手段が講じられるべきだろう。企業、政府、そして準政府機関は、管理を充実させてきている。ある例では、内部監査機能が、適切な機密保護措置を講じたうえでそのようなプロジェクトへアクセスできるようにしている。
よりありきたりな監査手順によって、追求に値する手がかりが明らかになった可能性もある。例えば、監査期間中に計算書と請求額の確認書の提出を求めるるという標準的な手順によって、KOTCのファイル内の請求書をClarkson社のような取引先のファイルにある請求書と比較できたであろう。偽造請求書が蔓延している状態では、そのような確認作業によって、請求額の水増しが明らかになっただろう。そして、受け取ったはずの請求書がファイルに存在しないという不正の兆候(red flag)が浮かび上がったはずである。
もう1つの標準的な手順として、一定の重要性判定基準(materiality threshold)により取引を個別に試査する方法がある。もちろん船舶売買の取引についてもこのようなカテゴリーにおける独自の監査機能を備えてしかるべきであるし、あるいは既に備わっていたかもしれない。重要な取引の監査によって、例えば、KOTCによって支払われた手数料とClarkson社による受取金額の確認書に差額が生じていることが判明したかもしれない。Clarkson社の財務部は、通常、監査用の確認書の要求に答えると考えられ、その回答から数字の不一致が明らかになることもある。また、監査人は、基準による試査にもとづき、業界標準とは大きく異なる手数料水準などについての照会を行うことが可能であっただろう。
監査は、名義会社(nominees)や休眠会社(shelf companies)を含む全子会社の棚卸資産を対象にすべきである。通常のサンプリングにより、子会社勘定の使用が明るみに出たかもしれない。このケースでも子会社を通じて多額の取引が行われていたことから、重要性要件を設けることで、精査が必要な特定の勘定が判明した可能性がある。
適切な記録保管を要求する内部手続きは、一般的に、効果的な監査に必要な要素である。例えば、裁判所の判決は、KOTCとSitka社からの出金は、銀行口座明細書に現れていただろうし、監査人の目にも明らかであっただろうと記している。しかしながら、会社のシステムによって、記載された出金の目的を確認するために銀行明細書と社内の記録が比較された形跡はなかった。
我々はもちろん、多額の現金の引き出しは、調査すべき危険信号だと考えるだろう。しかし、裁判所の判決では、当時の環境においては、トラベラーズチェックは多くの正当な目的のために幅広く利用されているとされた。それでも、会社の経費や小口現金勘定と同様に、大口の現金出金は明らかに乱用の対象となりうるものであり、特定の管理に値する。例えば、一定額以上の現金やトラベラーズチェックの引き出しや(2名による署名の必要条件はいうまでもなく)、現金やトラベラーズチェックの関連会社や従業員口座への引き渡し(delivery)関する記録保管のルールが整備されていれば、そのような引き出しを精査するための監査証跡を残すことができる。悪用されやすい取引や経費科目の試査や現金引き出しの無作為な精査によっても、問題を見つけることができたかもしれない。
三頭政治 (THE TRIUMVIRATE RULED)
KOTCの運営構造、その監査機能や統制を分析することにより、なぜこの不正事件がこれほど長い間発覚しなかったのかについての青写真を描くことができる。
これらの出来事が起こっている間、KOTCの会長兼社長であったアル・バーデは、経営・財務担当副社長であったカバザードを直属の指揮下においた。同様に、カバザードは、財務部長として仕事をしていた彼のアシスタントであり共犯者のナシム・モフシンから、全ての財務情報を受け取っていた。犯罪を示唆する多くのデータに目を通すはずの業務およびプロジェクト担当副社長の席が体よく空席にされていたために、この三頭政治によって全ての財務情報が掌握されることになった。このようにして、アル・バーデと彼の仲間は、監視の目を恐れることなく、思いどおりにビジネスを営む立場にいたのである。
監査人は、KOTCにおける継続した不正の兆候を見過ごしていた。聞くところによると、不正が行われていた期間、三つの独立した団体がKOTCの活動を監査した。1つはクウェートの監査局(State Audit Bureau)であり、KOTCの活動の全てを検査し、調査する権限を有していた。残念なことに、当局は懸念事項に関する経営のコメントを得るために、年度末の監査報告の草案を直接KOTCの経営陣に提出してしまった。これにより、アル・バーデとカバザードは、彼らの不正行為に悪影響を与えうる問題から監査人の注意をそらす絶好の機会を得ることができた。
同様に、KOTCの親会社KPCによる内部監査では、監査人からの照会がKOTCの経営陣に対して直接行われた。これも、アル・バーデと彼のとりまきにとって、悪事の突然の発覚から逃れるための格好の仕組みであった。
外部監査人も、同じくアル・バーデの管理の影響を受けていた。外部監査を担当したクウェート監査法人は、アーサー・アンダーセンと関係しており、彼らの監査は、アル・バーデによって完全に支配されていたKOTCの役員会に対してのみ実施された。
これらの複合的な問題により、経営陣によって一方的に支配され、実質的に誰に対しても説明責任を果たさない組織が放置された。組織内には監査人の機能を完全に無力化するような手続きが張り巡らされ、それによって、経営陣は監査人の目的をくじくができた。要するに、説明責任を伴う経営構造と真に独立した監査統制の欠如がこの不正を悪化させ、恐れを知らずに拡大することを許してしまったのである。このケースは、経営構造の基盤と財務の監視が適切に行われない場合にどのような結果に至るのかについて訓話として存在し続ける。
クウェート国営化の努力の一環として、いくつかの公益団体や組織が設立された。それらの目的は、最高石油会議(SPC)を含む、重要な石油セクターの活動を監視し、政策を制定することだ1974年の首長命令(Amiri Decree)によって設置されたこの会議は、国家経済と社会発展計画という枠組みの中における石油部門の全般的な政策設定の役割を担っている。1986年、石油省を商工業省から切り離す形で国営化プロセスが完了した。石油省は政策を制定し、SPCと関連して、クウェートにおける石油セクターと関係する全ての公的機関を監督している。よって、石油大臣は、クウェート石油会社(Kuwait Petroleum Company)の会長であり、SPCのメンバーである。今日まで、これがクウェート石油セクターの企業・政府構造として存続している。
アラン・バン・ブラグ(Alan Van Praag, J.D.)
ニューヨークのEaton & Van Winkleのパートナー。海事法、国際、国内商法の分野で35年以上活動している。
マーク・アスピナール(Mark Aspinall)
ロンドンのWaterson Hicks(www.watersonhicks.com)のパートナー。専門は、商品、運送、貿易金融、そして国際不正である。
バン・ブラグ、アスピナール共に、KOTCの代表者(representatives)である。